財団法人 民間放送教育協会

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谷田人司さんの取材原稿

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次のページが、谷田さんの今回の番組で取材した事をまとめた原稿です。谷田さんは、テレビの報道マンですから、原稿はテレビの台本形式になっています。 実際にテレビで放送する場合、どういう風に構成するのか?という原稿です。 今回の民教協スペシャルでは、放送した所以外にも取材を行なっていますので、まずは、文章に出てくる登場人物について、書きましたので、ここからお読みください。



【取材先】
1.ALS患者 土屋雅史さん(53) 妻・佳代子さん(50)(未放送)
仙台市にお住まいの土屋さん。
患者の雅史さんは人工呼吸器を装着していて、ほおに付けたセンサーでパソコンをあやつりコミュニケーションを図っている。
東日本大震災の際には5日間停電が続き、命を支える人工呼吸器が一時使用不能に。家族がゴム製の手動の人工呼吸器を押し続け、また近所の人たちが発電機やガソリンを持ち寄って雅史さんの命をつないだ。
谷田さんは震災の極限状態を経験した土屋さんから生きることの意味についてたずねようと取材先に選んだ。

2.ALS患者 鴨下雅之さん(52) 妻・章子さん(48)
雅之さんは意識がしっかりした状態のまま、体が一切動かなくなるTLS(Totally Locked-in State=完全閉じこめ症候群)になったALS患者。谷田さんは自分が将来、TLSになるのではと考えている。そして、「TLSになっても生きる意味」をたずねようと鴨下さん宅を訪れた。

3.北海道旅行(一部未放送)
学生時代、バイクで訪れて以来北海道を40回以上訪れている谷田さん。去年の夏、北海道で暮らす古くからの友人に会おうと妻と一緒に北海道旅行をした。JR松江駅を出発した谷田さんに途中まで山陰放送の同僚が同行。北海道に到着後も知人が付き添って、旅行する谷田さん夫妻を支えた。

下記からが、谷田さん自身がタイプした原稿です。



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■プロローグ
〈ノイズ〉呼吸器の音
私は一昨年の夏には死んでいた。人工呼吸器を着けていなければ。
人工呼吸器を着けて以来、在宅勤務を続け、取材にも行き、子どもの成長を喜び、楽しいこともたくさんあった。
〈ノイズ〉カープ戦「バンザイ、バンザイ、バンザイ・・・」
生きていればこそである。

私が患ったのは筋萎縮性側索硬化症、略してALSと呼ばれる難病だ。
進行すると体中の運動神経が死んでいき、呼吸を司る筋肉まで動かなくなり、死に至る。治療法はない。原因さえ分からない。

確定診断を受けたのは47歳。その直後、私は妻と泣いた。余命3年から5年と医師に告知されたからだ。
50歳まで生きられるだろうか。漠然と行く末に不安がよぎった・・・

告知を受け、私はすぐにセカンドオピニオンを聞くことを決めた。これもがんサロンの取材をしていたからこそだ。何の抵抗もなく主治医に申し出ることができた。主治医は快諾し、資料を整えてくれた。
翌月、京都大学病院を訪ねた。すると思いがけないことを言われ驚いた。
「呼吸器を着けると寿命まで生きられますよ」。
なんだ、それなら呼吸器を着けようじゃないか。
私たち夫婦ははしゃいだ。突然未来が開けた気がした。いま思えば短絡過ぎる発想だった。私たちは清々しい気持ちで京都観光をして家路についた。

ALSは残酷な病だ。進行すると感覚は正常なまま体のどこも動かなくなる「閉じこめ状態」になることがある。英語で言うとトータル・ロックトイン・ステート、略して、TLS。TLSになれば当然、自分の意思をまったく伝えられない。暗黒の世界が待っているのだ。
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セカンドオピニオンを聞いた時点では、私たちはTLSについてまだ知らなかった。

今も多くのALS患者の多くが、人工呼吸器を着けない選択をしている。
介護で家族に迷惑を掛ける、社会的な介護が不十分などの理由からだ。
この社会的介護の地域間格差は、厳然として存在する。

そうした中、生き抜こうと頑張っている患者がいる。
ALS患者の生きる意味とは何だろうか。その答え探しをするために、取材をすることにした。


■土屋さん訪問
私はTLSになったら生き抜く自信がない。
しかし、人工呼吸器を着けた以上、外すことはできない。このまま成り行きに任せてTLSに突入してしまわざるを得ない。
実は私は、もし楽に死ねる方法があれば、TLSになれば死なせて欲しいと思っていた。モルヒネでも使って楽に死ねたらと。
今でさえ自分の意思が伝わらず、イライラと落胆と惨めさを凄く感じることが度々なのだ。
だが、家族や、後に続く患者や家族のためにも、安易にTLSになったら死にたいなんて言えない。しかし本心では、生き抜く自信を持てていない。
強がっているだけなんじゃないか。
現実には、病の進行が早いため、数年でTLSになってしまう気がする。
一体どうすれば自信を持てるのだろうか。
そんな思いに捕らわれている中、東日本大震災が起きた。

〈ノイズ〉東北新幹線乗り込みat東京駅
未曾有の震災を生き抜いた患者にとっては、「生きること」への思いが強くなっているのではないか。生き抜く意味を深く考えるようになってはいないか。
とりわけ、ほとんど体が動かなくなった患者は、TLSになっても生きることに、どのような意味を感じているのだろうか。
そんな患者さんやご家族の思いを知りたくて、仙台へ取材に向かった。

今回訪ねたのは土屋雅史さん。土屋さんは表情は豊かだが、体のほとんどが動かない。
コミュニケーションは、眉に着けたセンサーでパソコンを動かしたり、文字盤を使って保っている。
〈ノイズ〉センサー取り付け
これは厳しい。
自分ももうすぐこうなるのか。そうなればきちんとセンサーをつけて貰えるだろうか。
パソコンをうまく動かせるだろうか。不安がよぎる。
私は声を出せないので、代わりに妻にインタビューしてもらい取材を始めた。
単刀直入に聞いてみた。
※ 谷田佳和子・代弁〓谷田人司の質問書と文字盤を代読したもの
※ 土屋佳代子さん・代弁〓土屋雅史さんがパソコン入力したものを代読したもの
〈ノイズ〉谷田佳和子・代弁
「実は私はTLSになったら生き抜く自信をまだ持てていません。もし、楽に死ねる方法があれば、私はTLSになれば死なせて欲しいと思ったことがありました。土屋さんはTLSになったとき、呼吸器を外して欲しいと思われたことはありませんでしたか。」
〈インタ〉土屋佳代子さん・代弁
「私も同じで生き抜く自信はまだありません。外してと考えたこともある。」
〈ノイズ〉谷田佳和子・代弁
「あったとすれば、その理由は何ですか。」
〈インタ〉土屋佳代子さん・代弁
「意思伝達できないと耐えられない。」
やはりそうか。同じことを考えるものなのだと思った。
この件について、妻の佳代子さんにも聞いてみた。
〈ノイズ〉谷田佳和子・代弁
「ご主人はかつて、TLSになれば呼吸器を外して欲しいとか言われませんでしたか。
もし言われた場合、それに対し奥さまはどのように考えられましたか。またその理由は何でしょうか。」
〈インタ〉土屋佳代子さん
「(呼吸器装着は)妻に任せますと言われ、はぁ?となったが・・・TLSになっても存在しているし、体も頭も動いているので同じように接します。」
雅史さんが呼吸器装着について妻に任せると言ったのは、佳代子さんへの介護負担や金銭的な負担を案じてのことだろう。
佳代子さんは雅史さんの意思を尊重する考えだったが、雅史さんの母親が引き留めた。
ALS患者は呼吸器装着の是非について、その重圧に潰れそうになる。
引き留める人がいないと患者は、死を選ぶ可能性が高まる。
〈ノイズ〉谷田佳和子
「TLSになっても外しては受け入れられない。夫婦だから自分の命みたいなもの・・・」
〈ノイズ〉谷田佳和子・代弁
「今までにないことを言うなぁ。」
〈インタ〉土屋佳代子さん
「病気になり妻も同じ気持ちだと思う。」

私は質問を続けた。
〈ノイズ〉谷田佳和子・代弁
「TLSになっても生きる意味とはどういうものでしょうか。」
〈インタ〉土屋佳代子さん・代弁
「存在感を示せるかどうか。」
この存在感というのは、雅史さんが医療人を目指す学生や、介護を志す人への指南役を担っていると言う意味を持っていた。これについて佳代子さんはこう説明してくれた。
〈インタ〉土屋佳代子さん
「家族も含めて前向きに生きるのが世間への恩返し。学生に教えている・・・TLSでもできる・・・生きようとする気持ちは人に伝わるし」
〈ノイズ〉谷田佳和子・代弁
「社会への恩返しは良い視点で、目からウロコ」
雅史さんから教わった人たちが、これからの難病医療や介護を支えていくのだ。
TLSになっても果たせる役割があるとわかり、私は少し自信を持てた気がした。

それにしても、雅史さんはTLSに突入したらどのように生きていくのだろう。自信はあるのだろうか。何か心構えがあるのだろうか。
〈インタ〉土屋佳代子さん・代弁
「まだ考えられないが、意思伝達の方法を模索しながらあがいていく。進行の速さを感じているため、わがままを言いながら今をゆっくり生きたい。」
あがいていくとは相当な覚悟だ。私にはまだその様な覚悟がない。私にそのような生き方ができるだろうか。

昨年3月11日、生きることを選んだ雅史さんを震災が襲った。
津波が土屋さん宅のわずか1.5㎞先まで押し寄せた。停電は5日も続いた。
人工呼吸器を着けた患者に電気は不可欠だ。近所の人や知人が発電機やガソリンを持ち寄ってくれたり、家族が交替で手動の呼吸器を動かして雅史さんの命をつないだ。
未曾有の厳しさの中を生き抜いた雅史さんや家族に、心境の変化はあるだろうか。
〈ノイズ〉谷田佳和子・代弁
「震災を生き抜いたことで「生きることへの思い」に変化が出ましたか。」
〈インタ〉土屋佳代子さん・代弁
「僕は運を持っていると思った。ほかの患者が入院している中、自宅にいられたので」

佳代子さんには、患者を支える妻の立場として、震災を経験してからの心境の変化を聞いてみた。
(〈ノイズ〉谷田佳和子・代弁
「震災を乗り越えたことで、ご主人を支える思いに変化が出ましたか。」)
〈インタ〉土屋佳代子さん
「いつも喧嘩していたが、この人、大事なんだと気付いた。改めて家族の絆を感じた。
自分の生き方が間違いないと確認できた。今までは自分が見てやってると思ったが支えられてるかもしれないし、1日を大事に生きれば良いんだなと思う。・・・TLSは考えたら怖いし、今を一生懸命生きるしかない。この病は先を考える辛いので・・・」



〈ノイズ〉谷田佳和子・代弁
「震災を経験されたことで、もしTLSになった場合の生きる心構えに変化が起きたでしょうか。
〈インタ〉土屋佳代子さん・代弁
「進行が確実に進むので少しでも楽しいことを妻の協力で実現したい。外出や学生の指導。TLSは本音を言うと今は考えていない。」
〈ノイズ〉谷田佳和子・代弁
「今を一生懸命生きると言うことですね。」
〈インタ〉土屋佳代子さん・代弁
「そうですね。」

最後に佳代子さんに、これから雅史さんとの暮らしで、夢とか目標を聞いてみた。
〈インタ〉土屋佳代子さん
「毎日、今日、楽しくちゃんと生きたねって・・・子どもたちが結婚して幸せに暮らしているのをパパに見せられたら。パパが一生懸命生きている姿は、子どもたちの生き方に変化を見せているし、パパは普通の親父のように頑張って、息子の幸せを見られたらいいというのが夢。普通の生活をできるのがどんなに素晴らしいかと気付く。災害に遭いもっと感じる。普通に起きて今日も終わったねと。」
〈インタ〉土屋佳代子さん・代弁
「一緒に旅行しよう、何かトライしよう、会社作ろう、生きざま見せて!」
〈ノイズ〉谷田佳和子・代弁
「日々生きる大切さを教えて頂きました。勇気を頂きました。」

土屋さんご夫婦のとても穏やかなで素敵な表情、明るい暮らしぶり。震災を乗り越えたくましくなられたように感じた。1日1日を精一杯生きること、自然体で生きること。とても納得できた。「生きざまを見せてみろ」。
雅史さんにハッパを掛けられた私は、頑張らざるを得なくなった。
〈インタ〉谷田佳和子・代弁at土屋さん宅玄関先
「・・・・・・・」
生きざまを誇れる人生。
すなわち、前向きに生きることで世間への恩返しすること。医療や介護を支える人材を育てること、後に続く患者にとって頼れる存在になること。
頑張ってみるか。そんな気持ちが高まってきた。


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■ 鴨下さん訪問
今日は大事な取材で上京する。
東京へは飛行機が便利だ。障害者には丁寧な対応をしてくれる、とても有り難い乗り物だ。取材や患者 会活動でしばしば利用するため、米子空港のスタッフとは顔見知りになった。
〈ノイズ〉機内へ乗り込み
東京まで1時間あまり。学生時代から30年も通い慣れた道だ。

〈ノイズ〉タクシー乗車中
変な話だが私はいつも体のどこかが痒い。しかしTLSになると、どんなに痒くても痛くても、自分の意思を伝えられない。七転八倒することもできず、暗闇の中で耐えるしかないのだ。
TLSになっても生きることに、どのような意味があるのだろうか。
幸せはあるのだろうか。
TLSになった患者とその家族は、どんな風に暮らしているのだろうか。
実は私は、TLSの患者さんに一度も会ったことがない。TLSの恐怖に耐えられるだろうか、それとも晴れ晴れとした気持ちで帰れるだろうか・・・
とにかく記者としてしっかり仕事をしよう。そんな思いを抱きつつ、東京の鴨下雅之さんを訪ねた。

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取材のポイントは、雅之さん本人やご家族が幸せを感じているか。
幸せを感じるのはどんな時か。
鴨下さんは一体どんな存在なのか。
妻の章子さんと次男の俊也さんに聞いてみた。

〈ノイズ〉あいさつ
雅之さんの第一印象は驚くほど穏やかだった。
体のどこも動かず、表情にも変化はない。が、雅之さんは微笑んでいるように見える。
雅之さんも私と同様、比較的軽い気持ちで人工呼吸器を着けたものの、そのあとで生きることにかなりの葛藤があった。

〈ノイズ〉谷田佳和子・代弁
「ご主人は、TLSになったとき、「生き抜きたい」、あるいは、「呼吸器を外して欲しい」など、何か重大な要望をされたことはありましたか。」
〈インタ〉鴨下章子さん
「着けるんじゃなかったと泣いてばかりいた・・・」
生きるか死ぬか。もがきの時期がやはりあったのだ。

〈インタ〉鴨下章子さん
「どん底の時に尊厳死させてくれといろいろな人に言った・・・」
尊厳死させて欲しいと訴えられたのは分かる気がする。やはりALSの残酷さを考えると、生き抜く決意を固めるのは一筋縄にいかないのだ。
章子さんはご主人の意向を尊重する考えだったそうだ。しかし・・・
〈インタ〉鴨下章子さん
「まわりがみな尊厳死を否定、それが良かった・・・」

引き留めたあとは、家族がさまざまな模索を始めることとなった。
〈インタ〉鴨下章子さん
「思うとおりにしてあげたくて悩んだ・・・「尊厳ある生」を考えないと、尊厳を考えサポートをするか毎日のケアを充実するか、それを訴えてね」
尊厳ある生。
実現するために章子さんは、市役所へ相当通い介護支援を訴え続けた。私の妻と同じ苦労をしていた。
家族は雅之さんを励まし続けた。雅之さんの心に変化が現れた。
〈インタ〉鴨下章子さん
「尊厳死を言わなくなったけど、「いいことありそう?」と聞くと五分五分かなと・・・」
ALS患者は次第に体の自由や意思を伝える術を失うため、生きるのが辛くなる。
しかし、役割はあった。
〈インタ〉鴨下章子さん
「子どもの成長を見られたのは大きい・・・子どもの成長を見るために生きないといけないのと、ブーブー言った時期もあったけど・・・尊厳死を言わなくなると妻を呼んで、妻を呼んでと・・・」
五分五分の意味には、家族とともに生きたいという、意欲の台頭があったのだ。

ところで、 雅之さんは当然自分から体調の変化や痛み、かゆみを訴えられない。
このため、介護する人は頻繁に体温や血圧を測ることで、体調の僅かな変化も見逃さない。
こまめに体を動かし、痛みや痒みも作らない。
ヘルパーさんの能力の高さに私は目を見張った。
ヘルパーさんが見事に教育されている。
実は鴨下さんは、医療や介護に携わる人材を育てていることで、社会に貢献している。

そして、最も印象的だったのは、ALSが進行しても、雅之さんは家族にとってかけがえのない夫であり、父親であることに変わりはないということだった。
核心を章子さんと次男の俊也さんに聞いてみた。

〈インタ〉鴨下章子さん
「本人に言えるのは幸せ・・・ 遺影に言うのとは違う・・・実感できる・・聞いてもらえているし、案じているし、幸せかな・・・聞いてもらえると信じているので幸せ・・・生きてくれているからこそ」
家族は子どもの高校合格など、みんなが集まって雅之さんの顔を見て報告したという。
俊也さんが小学生になった頃には、雅之さんはかなり進行していた。それでも座りながらキャッチボールしてくれた。俊也さんにとっては、進行してからの思い出が多く、濃い。
〈インタ〉次男鴨下俊也さん
「父は一人しかいないし、いてくれるからいろいろなこと挑戦したいし、その分、楽しいことをして報告して分かって貰えている。会話はできなくても父は父だから、ちゃんとした父という存在。」
〈ノイズ〉
(谷田)そういう話を聞けると嬉しいね。
(章子)じゃぁ、うちのお父さんも嬉しいね。
(俊也)それが一番嬉しいです。
(谷田)幸せを実感してますね
(俊也)そうです。ごく普通の幸せです。

そして、東日本大震災が鴨下家に大きな影響を与えていた。
〈インタ〉鴨下章子さん
「震災で亡くなった人より長生きして・・・幸せは本人が生きていないと・・・生きのびて良かった。・・・生かされているなら、生きていかないといけない運命。」
そして、今回の取材で私は思いがけないことに気がついた。
〈インタ〉鴨下章子さん
「奥さんが来ると顔色が変わると言われた・・・」
雅之さんはTLSなっても章子さんに恋しているのだ。
ちゃんとコミュニケーションが取れているではないか。これは新鮮な驚きだった。
私はとても勇気づけられた。

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大切な人のために生きる。
我が身に照らせば、二人の子どもと最愛の妻のために生きる。
これからも雅之さんは家族と共に歳を重ねていく。
TLSになっても生きるって素晴らしい。
雅之さんも喜びを感じているに違いないと確信できた。
それを裏付ける章子さんの二つの言葉がとても印象に残った。

〈インタ〉鴨下章子さん
「辛いだろうことも受け入れたい。楽しいことは2倍にして、辛いことは半分にして、一緒に思ってあげないと」これは患者には有り難い発想だ。
そして、大きく勇気づけられたのがこの言葉だった。
〈インタ〉鴨下章子さん
「生かされていることを自覚すると、未来が大きく開ける。前に明るいところがあるのに、後ろを向いていると見えない」

〈ノイズ〉中央線快速車内
これからしっかり準備して生き抜いていこう。
ALS患者が安心して暮らせる社会環境を叶えるため、さらに頑張ろう。
自分の決意が固まってきた。とても晴れ晴れとした気持ちで、私は取材を終えた。



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■原稿作成
〈ノイズ〉原稿作成
鴨下さんの取材を終えて、私はすぐに原稿を書き始めた。普段、ニュースや番組の企画案を書いている が、原稿を書くのは2年ぶり。意外と筆が進む。記者としての喜びをとても感じている。
できる限り体のケアをしながら記者の仕事を続けたい。そしてこの春、子どもたちが離れていく。妻との暮らしを心から楽しみたいものだ。


■ 北海道へ
仲間はありがたい。50歳の誕生日を翌日に控えたこの日、北海道へ渡るため列車で舞鶴港へ向かう。会社の汽車好き仲間が途中まで同行してくれることになり、松江からは平尾さんが合流。列車の轍の音、仲間との会話が心地よい。幸せを感じるひとときだ。
見慣れた風景が次々と走り去る。この日は山陰本線の列車を6本乗り継ぐ。途中、米子からは門脇君が合流し、いよいよ汽車旅が盛り上がる。
私がALSになってからも、人工呼吸器を着けてからも、こうして公共交通を使うのには理由がある。障害者になっても好きなことを止めたくないのと、自分の姿を見せることで、少しでも多くの人に気付いてもらい、ALSについて知ってもらいたいからだ。
呼吸器を着けたらもうおしまいではないのだ。メガネがないと見えないように、呼吸器がないと息ができない。そんな感覚なのだ。
重度障害者も普通に暮らせる世の中にしたい。いわゆるノーマライゼイションに一役買いたい気持ちがある。呼吸器を着けた途端に、病院で寝かせきりになる世の中にはしたくない。
〈ノイズ〉下車
途中、鳥取で途中下車する。ここは私が2003年まで記者として暮らし、子どもたちが小学生時代を過ごした、思い出多き懐かしい街だ。この鳥取で一つ仕掛けを用意した。
私がALS を発病し告知を受けた時、50歳まで生きられたらいいなと思っていた。
だが、本当に50歳を迎えられることとなった。ここまで生きてこられたことに感謝したい気持ちを、リングに託して妻にプレゼントしようと思った。
結婚から22年。これまでの感謝と、これからもよろしくという思いを込めて。


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〈ノイズ〉リング贈呈
妻へのサプライズは成功。娘と選んだリングを気に入ってもらえ嬉しい。
ところで、鳥取市を中心とした因幡地方では結婚式の日に、新郎新婦が近所の人にせんべいを配る習慣があり、かつてそれをニュースの特集で取材した。
その時の新婦が嫁いだ先が貴金属店だった。その林ルミさんに指輪を用意して頂いた。
思いがけず、私は林さんからは大きなバラの花束をいただいた。これには大感激。呼吸器を着けて生きてきた喜びを噛みしめた瞬間だった。
鳥取駅を出る際には鳥取で共に取材活動していた入江記者にも見送って頂いた。仲間の有り難さを身にしみて感じた。
今回の旅では列車を乗り継ぐたびに1,2時間の待ち合わせ時間を取った。呼吸器を充電するためだ。電動人間の私には不可欠だ。おかけで楽しい発見があった。
兵庫県の浜坂駅にある「鉄子の部屋」。貴重な鉄道グッズが所狭しと並んでいる。随分鉄分が高いスポットだ。
その浜坂を出ると今日一番のハイライト、余部鉄橋を渡る。実は私がALSの告知を受けた後、4年前に平尾さん門脇君と渡っている。今のコンクリート橋になる前に、開通当時の鉄橋を渡っておこう、私が動けなくなる前にと出掛けた旅だった。その余部をいま、再び一緒に渡ることができる。
〈ノイズ〉余部鉄橋を渡る
平尾さんは学生時代に寝台特急の食堂車でアルバイトをしていて何度も渡っている。
私も4歳の時から母の実家がある京都に行くたび、学生時代には帰省のため夜行列車で何度も渡った思い出深い橋。感慨ひとしおであった。
10時間に及ぶ汽車旅。平尾さんと門脇君はずっと立ったまま、私をサポートしていただいた。とてもありがたかった。こんなに病が進行しても共に鉄道の旅ができて嬉しいことこのうえない。
〈ノイズ〉乗船
今回の北海道行きは観光ではない。北海道でお世話になった人に会う旅だ。
北海道は私の第二のふるさと。学生時代に網走の馬の牧場で居候をしていた。この経験がそれまで神経質だった私の性格を見事に変えた。細かいことを気にしなくなった。
広大な大地で、厳しい自然と折り合いながら暮らしたことがそうさせたのだろう。
学生時代は列車と青函連絡船、社会人になってからは日本海側のフェリーで何度も通った。飛行機で行くのは、距離感がつかめない。北海道へ「渡る」と言うプロセスを大切にしてきた。
〈ノイズ〉フェリー航行中 舳先が蹴散らす波
日中は船尾のデッキに立つ。陸からはるか200㎞。海と水平線、空、航跡しか見えない。
航跡は自分が歩んできた過去のようだ。時間が経てば消えていく。見つめていると心が空っぽになる。
日常では得られない、至福のひととき。私がフェリーにこだわる理由はここにある。
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〈ノイズ〉航跡
この日は私の50歳の誕生日。大海原を北に向かうフェリーで妻と乾杯した。そのあとだ。サプライズがあった。
〈ノイズ〉手紙取りだし・読み上げ
心温まる手紙は涙なしには聞けなかった。22年ぶりの手紙。妻の思いを知り、また、これまでの自分の頑張りを評価されて嬉しかった。
〈ノイズ〉髙橋さんと再会
札幌駅で髙橋幸一(たかはし こういち)さんと1年ぶりに会う。2年前に車椅子でフェリーに乗ろうとしていた私を気遣い、声を掛けてくださったのが髙橋さんだ。
札幌ではまず、バスで私の北海道通いのきっかけをくれた人に会いに行った。
〈ノイズ〉武田さんと再会
武田潤(たけだ じゅん)さん。2年ぶりの再会だ。
武田さんは今も昔も土産物店に勤める木彫りの名人。30年前に初めて北海道に渡ったとき、キーホルダー1個しか買わなかった私に、長い時間を掛けて丁寧に北海道の魅力をいろいろ教えて頂いた。この出逢いがなければ、私の北海道通いはなかった。
初めて逢ってから30年も経つなんてとても思えない。二人の間で時間が止まっている。また再会できると良いが・・・。

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そのあとは髙橋さんと札幌を歩いた。この日は初めて赤煉瓦の道庁へ行く。建物に開拓時代の雰囲気を感じ取れた。ただバリアフリーには無縁の建物で、警備員6人に担ぎ上げてもらう。心のバリアフリーだ。
今回の渡道でどうしても行きたかったのが時計台だ。
札幌農学校のクラーク博士が言い残した有名な言葉、「Boys be ambitious.少年よ大志を抱け」。博士の言葉と写真を学生時代に時計台で見た。その頃、網走に残るか、ふるさとの米子に帰るか迷っていた。
本当に俺に志はあるのか。流されているだけではないのか。その頃から、ことあるごとに時計台で自問自答してきた。
そして今回。
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〈ノイズ〉鐘の音
博士が聞いていたのと同じ鐘の音。涙が止まらない。
〈インタ〉谷田人司
「本当は生き抜く自信を持てていなかったことに気付いた・・・」
志を持って生き抜きなさい。博士が背中を押す。TLSを恐れずに生き抜け、6命を全うしろと。

通い慣れた道を函館へ向かう。旅の終わりは決まって函館だ。
初めて渡道したのは2月だった。青函連絡船に乗り、未明の函館駅のホームで経験したことのない地吹雪に遭い、寒々とした車窓に驚いたことを今も鮮明に思い出す。それから30年。光陰矢のごとし。生き急いだかなとも思う。
函館には青函連絡船摩周丸がいまもひっそりたたずんでいる。私が最後に乗った連絡船はこの摩周丸だった。
「何度も北海道へ運んでくれてありがとう」。ワクワクしながら津軽海峡を越えたことを思い出す。あの窓から海峡を見ていた。つい涙が出てしまう。

北海道を離れるときはいつも午前0時40分発の夜行の連絡船だった。夕方に函館に着き、函館山で夜景を見て、出航時間までいつも必ず寄るバーがあった。
「舶来居酒屋杉の子」。
〈ノイズ〉入店
ここは杉目泰郎さん千鶴子さん夫妻が切り盛りする、函館では老舗のバー。創業半世紀を超えた。マスターが繰り出す珠玉のカクテルにいつも心地良く酔っていた。
マスターは既に他界されたが、千鶴子さんは今もご健在だ。御歳85歳。
〈ノイズ〉車椅子担ぎ上げ
一緒に飲むのは片山英昭(かたやま ひであき)さん。2年前に車椅子で入店しようとする私たち夫婦を偶然目撃され、手伝ってくださった。その時、私が一緒に飲みませんかとお誘いしたのがきっかけでお付き合いが始まった。
この夜、最初に注文したのはお気に入りのカクテル「サイドカー」。舌で味を確かめたあとは、胃ろうからゆっくり流し込む。
〈ノイズ〉語らい
こうして飲んでいると、自分が重度難病患者であることを忘れてしまう。変わらぬ店の作りや雰囲気に包まれ、さながら学生時代にタイムスリップしているようだ。
千鶴子さん片山さんとの語らいは尽きない。来年も必ず会おうと約束し合った。
30年前と同じように、私の函館の夜は更けていった。



谷田さんのメッセージや取材裏話を掲載した番組HP も御覧ください。

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